リンカーンと奴隷制度
どのようなことが問題だったのか、考えてみました。
エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln, 1809年2月12日 - 1865年4月15日)は、第16代アメリカ合衆国大統領。初の共和党所属大統領。しばしばエイブ (abe) の愛称で呼ばれ、オネスト・エイブ (Honest Abe)、レール・スプリッター (the Rail Splitter)、偉大な解放者(the Great Emancipator)、奴隷解放の父と呼ばれた。
リンカーンは奴隷制の拡張に反対し、彼の大統領就任はアメリカ合衆国を二分し、南北戦争に結びついた。戦争中に彼はアメリカ史上その前任大統領に比べ最も多くの権力を手にした。リンカーンはその非常大権によって封鎖を宣言し、人身保護令状を保留し、議会の認可無く支出を行い、個人的に戦争を指揮し、それは北部連邦を南部連合に対する勝利へ導いた。近年は原語の発音に近いリンカンの音訳も散見される。
大統領職
1854年のカンザス・ネブラスカ法はリンカーンを政治の世界へ引き戻すきっかけとなった。リンカーンの1854年10月16日のピオリアにおけるカンザス・ネブラスカ法に反対する演説は、当日集まった自由土地主義の弁論家達の中で彼への注目を集めさせることとなった。
リンカーンは1858年に民主党の有力政治家スティーブン・ダグラスへの対立候補としてイリノイ州の連邦上院議員選挙に出馬するが、選挙活動中のダグラスとの一連の公開討論会は全国的な注目を集めた。当時多くの東部共和党員はブキャナン政権への反対勢力の全国的指導者としてダグラスを支援した。選挙自体はダグラスが接戦を制したが、選挙活動におけるリンカーンの雄弁さは彼を政治的注目候補とした。リンカーンとダグラスの間で7回にわたって行われた「リンカーン=ダグラス論争」の討論は地方政治家に過ぎなかったリンカーンを全国的な政治家に押し上げた。
彼は1860年の大統領選挙での共和党大統領候補に指名される。大統領候補に名乗りをあげた共和党政治家の中では対南部強硬派のウィリアム・スワードが本命であったが、多数派工作の末、内戦を恐れた穏健派の推したリンカーンが、無難な妥協候補として共和党大統領候補に選ばれた。
1860年の大統領選挙では、リンカーンは民主党の分裂も幸いして、4割に満たない一般投票得票率ながら約6割の選挙人を押さえ、ジョン・ブレッキンリッジ、スティーブン・ダグラスなどを大差で破って当選した。リンカーンは選挙戦の最中、選挙の肖像画を見た11歳の少女グレース・ベデルに「ひげを生やしたほうが威厳があって良い」とアドバイスされ、それに従ってひげ(頬髯と顎鬚)を生やした。1860年11月6日にリンカーンは第16代アメリカ合衆国大統領に選出された。共和党員として初の大統領であった。大統領就任後、ベデルの家を訪れ感謝の意を表したという。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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